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上野エンジェル隊活動ブログ

行政改革推進法案が提出

政府は19日、「道州制特区広域行政推進法案」を閣議決定した。全国的な道州制導入に向け、北海道を先行モデルとする法案として注目されてきたが、調整の過程で特例の廃止を懸念する北海道や、権限移譲を警戒する各省庁の激しい反発に直面。北海道での公共事業への国の補助率を他の地域よりかさ上げする「北海道特例」は事実上維持される一方、国が所管する事業の移譲も8つだけという小粒な中身にとどまった。「道州制」という看板は掲げるものの実態は「似て非なるもの」。本来の狙いである地方分権や小さな政府への道のりは、はるか遠い。

 「道州制に向けた試金石といっても過言ではない。裁量権や財源でも先駆的な中身になる。是非、今国会で成立をさせたい」――北海道選出議員の1人、自民党の武部勤幹事長は法案の意義をこう強調する。

 法案の内容はこうだ。

 国から移譲する事業として8事業を明記。調理師養成施設の指定など4事業は全国での実施を想定し、国が建設を代行する「開発道路」や二級河川の整備・管理など4事業は北海道限定での移譲となる。「北海道特例」は全額交付金に切り替える形で事実上維持。来年4月を想定する法施行から8年後に「経済社会情勢の変化などを勘案して制度を検討」し、必要があれば見直す規定も盛り込んでいるが、当初検討した特例の段階的見直しは見送った。

 行政の権限を道州に大胆に移譲し、国は中枢機能だけを担うことで、効率的な政府と住民のニーズに密着した地方行政を確立しようというのが道州制の本来の理念のはず。ところが法案は、「道州制特区」という名称が象徴するように、試験的な内容にとどまった。

 閣議決定に先立ち法案を了承した12日の自民党の会合で、遠藤武彦・北海道道州制検討小委員長は「新たな統治機構の突破口だが、税制や財源の移譲問題は全く手付かずで、半分じくじたる思いはある」と漏らした。

 そもそも政府はなぜこの時期に「道州制」と冠した法案を提出したのか。一つには、首相の諮問機関である地方制度調査会が2月末に道州制の区割りなどを盛り込んだ答申をまとめたという外部環境がある。机上の議論にとどまっていた構想が具体性を帯び、北東北や四国など地域ブロック単位で真剣に道州制を考え始める自治体が登場。各地域の行政機構の在り方が問われつつある。

 今国会に行政改革推進法案が提出され、国と地方の歳出削減など行政効率化の議論に拍車がかかっていることも一因だ。当初の構想では、北海道庁と国土交通省の出先である北海道開発局との二重行政のムダを省くとともに、北海道特例も縮小、資金的なムダを圧縮しようとした。

 しかし、特例縮小には北海道が激しく抵抗。来春に任期切れを控える高橋はるみ知事は次期選挙もにらんで見直しに反対し、巻き返した。権限を維持したい関係省庁も移譲には消極的姿勢を貫いた。

 北海道の関係者には複雑な思いが残る。道選出の与党のある国会議員は「地元からは怒られるだけで、誰も『道州制への第一歩』だなんてとらえてくれない」と語る。あまり知られていなかった北海道での公共事業への優遇措置に注目が集まり、縮小論ばかりが先行したという不満だ。前ニセコ町長の逢坂誠二民主党衆院議員も「道州制・分権に大胆に一歩踏み込むのではなく、現状を維持するのでもない。極めて中途半端で、評価に値しない」と批判する。

 「(中身ではなく)道州制特区という仕掛けを作ることがミソだった」と内閣府の担当者は語るが、道州制につながる筋道を描くには仕掛けはあまりに小さく、現時点では地元の理解も足りないのが実情だろう。

— posted by サイト管理者 at 05:04 pm  

専用車は米自動車大手ゼネラル・モーターズ

20日のオバマ米新大統領の就任パレードで、新しい大統領専用車がお目見えする。

 選挙期間中からオバマ氏を狙った暗殺計画が絶えないこともあって、大統領を警護するシークレットサービスの担当者は「世界で最も防御に優れた車だ」とアピールしている。

 専用車は米自動車大手ゼネラル・モーターズの高級車「キャデラック」のリムジンで、ロイター通信によると価格は43万5000ドル(約3900万円)。車体は装甲車並みの鋼板で覆われており、ドアの厚さは約20センチ。催涙ガス砲などを搭載し、生物化学兵器による攻撃にも耐えられる性能を備えているという。

オバマ新政権 連邦議会議事堂に到着したオバマ新大統領(中央)=AP オバマ大統領はリンカーンが宣誓で使った聖書に手を置いて、就任宣誓した(20日、ワシントンの連邦議会議事堂で)=AP 大統領就任パレードで市民に手を振るオバマ夫妻(20日、ワシントンのペンシルベニア通りで)=ロイター 就任式のテレビ中継で米国歌が流れる中、国旗を手に敬礼する男性(20日、米オハイオ州で)=AP オバマ大統領の就任に涙ぐむ市民(20日、ワシントンのナショナル・モールで)=AP
 オバマ大統領の就任で、ワシントンは20日、熱気と感動に包まれた。

 オバマ大統領は20日午後0時5分(日本時間21日午前2時5分)、連邦議会議事堂=地図A=前で開かれた就任宣誓式で、リンカーン大統領も使用した聖書に手を置き、宣誓を行った。ロバーツ最高裁長官が宣誓文を読み上げる順番を間違え、オバマ氏が言いよどむ場面もあった。傍らでは黄色のドレスに身を包んだミシェル夫人が見守った。

 「米国は、平和と尊厳を求めるすべての国家の友人だ」。就任演説で、オバマ大統領がこう訴えると、ひときわ大きな歓声がわいた。聴衆の星条旗が左右に振られ、地面がうねるかのようだ。

 議事堂前の広場「ナショナル・モール」=B=を埋め尽くした聴衆は午前9時現在で約50万人。パレードなどもあわせ、合計では過去最高となる約180万人の人出となった。

 約18分にわたるスピーチには、オバマ夫妻の2人の娘や、ブッシュ親子とクリントン、カーターの歴代4大統領夫妻も立ち会った。

 米国史の節目となったこの日は、祈りで始まった。オバマ夫妻は午前8時45分、迎賓館ブレアハウスを出て、ホワイトハウス北側にある小さなセント・ジョンズ教会=C=に向かった。歴代大統領の故事に倣ったものだ。

 次は最後の引き継ぎだ。約1時間後、パトカーに先導されたリムジンに乗り、ホワイトハウス=D=へ。ブッシュ大統領は玄関の外でオバマ氏を抱きしめて迎えた。新旧副大統領も交え、コーヒーを飲みながら最後の引き継ぎを行った。

 午前10時50分、オバマ氏は、ブッシュ氏とリムジンに乗り込み、就任式へ。警察官がずらりと道の両脇にならぶ。ブッシュ夫妻にとっては、8年間暮らしたホワイトハウスを去る瞬間だ。夫妻は就任式後の午後2時前に、アンドリューズ空軍基地から自宅のあるテキサス州に向かった。

 就任式を終え、ブッシュ夫妻を見送ったオバマ新大統領は、連邦議事堂内で、議会メンバーらと昼食。

 午後3時半、オバマ大統領は、ミサイル攻撃も防ぐという新大統領専用車のリムジンに乗り、ホワイトハウスまでの約2・5キロのパレードに出発。途中2度車を降り、ミシェル夫人と手をつないで歩きながら、沿道に並んだ市民らに手を振った。ホワイトハウスに夫妻が入ったのは午後5時頃だった。

 ワシントン市内では、市民や観光客も、歴史的な一日を十分堪能した。

 「モール」周辺では、毛布を抱えた徹夜組が待機。夜明け前の午前6時、議事堂前は既に人で埋め尽くされていた。この日は風が冷たく、体感温度は氷点下10度前後。帽子やマフラーで“完全武装”した家族連れらが、「オバマ!」「イエス、ウィ・キャン」と叫びながら、続々集まった。

 一方、警備に当たった警官や兵士らは4万人以上。約5000台の監視カメラと金属探知機や爆弾処理車両に加え、爆発物探知犬や、起爆装置の作動を妨害する電子装置も用意された。戦闘機F16や迎撃ミサイル「パトリオット」も空からの攻撃に備えるものものしさだった

— posted by サイト管理者 at 05:27 pm  

新総合医療共済

いま、ジワリと共済に関心が高まっています。まさかの事態に備えた保障商品という点では、保険会社の扱う保険と同じ位置づけで利用されていますが、監督省庁が異なったり、商品性などにも違いがあります。まず今回は、共済のイロハと魅力についてお伝えします。

今は“共済”といえば認可共済
 共済と聞いて思い浮かべるのは、認可共済と、ひと昔前までよく見聞きした“無認可共済”ではないでしょうか。かつての無認可共済は、2008年4月から原則として金融庁の監督下に入り、移行期間中のもの(特定保険業者)も今年度中には、(1)保険会社になる(2)少額短期保険業者になる(3)廃業する(4)保険業法対象外の形で継続する(下表参照)――のいずれかにすっきり決着する予定です(公益法人が行う保険・共済事業は別途)。

●保険業法の適用除外団体(保険業法の規制対象外)の例 <1> 他の法律に特別の規定があるもの <2> 地方公共団体が住民を相手方として行うもの <3> 企業内共済 <4> 労働組合内の共済 <5> 学校内共済 <6> 地縁団体内共済 <7> 1,000人以下の者を相手方とする小規模共済 ※金融庁のホームページ情報をもとに作成
 したがって、いま“共済”というと、認可共済あるいは「(4)保険業法の対象外の形を取る団体」のいずれかということになります。今回は、認可共済のうち消費生活協同組合法(生協法)に基づき厚生労働省の認可を受けて設立された、“保障”の生協である「都道府県民共済」「全労済」「CO・OP共済」に焦点をあて、共通した特徴について確認します。

魅力1:商品性のわかりやすさ
 共済商品の大きな魅力の一つが、保障の“わかりやすさ”です。「都道府県民共済」や「全労済」のパンフレットを、銀行のATMコーナーやコンビニのカウンター下などでよくみかけることからもわかるように、基本的に、自分で見て判断して申し込める内容になっています(ちゃんと話を聞いてからという希望者は、共済ショップなどで相談に乗ってもらうことも可)。

 また「CO・OP共済」でも、生協利用者がパンフレットを見て申し込む流れになっています(首都圏で複数名の希望があれば、共済担当のファイナンシャル・プランナーが保障の考え方などの説明に赴くなどのフォローもあるようです)。

 特に身近なのが、掛金一律型の共済です。「都道府県民共済」では“生命共済”、「全労済」では“こくみん共済”、「CO・OP共済」では“たすけあい”というネーミングで親しまれており、20歳で入っても50歳で入っても、毎月1,800円とか2,000円といった手軽な支払額になっています。なお、保障内容は死亡保障・医療保障などが組み合わさった複数のプランの中から、自分のニーズに合ったものを選択する形になっています。

魅力2:掛金の安さ
 もちろん、掛金(保険料)負担の軽さも大きな魅力です。月々の掛金ベースでの比較だけで「共済は安い」とする声もあるものの、最近のネット保険なども視野に入れると、実は一概にそうとも言えない状況です。しかし、共済の多くは、毎年の決算で割戻金(剰余金)を高い割合で還元しており、その還元率も考慮するとかなり家計に優しい負担になるお楽しみがあります。

 たとえば、前述の掛金一律型共済においては、毎年、前年度の掛金に対し20~35%程度の割戻金(剰余金)の還元があります。仮に、毎月の掛金が2,000円だとすると年間で2万4,000円を払い込むわけですが、割戻金が30%の例では、次年度に7,200円が還元されることになります。これを月々にならすと600円なので、実質的な掛金月額は2,000円-600円=1,400円で済んだと考えられるわけです。この割安感が、根強い人気の一つになっています。

 いまは、保障に“わかりやすさ”が強く求められる時代です。保障内容のわかりやすさ、掛金のわかりやすさ、という共済の魅力は、自分で納得して保障を確保したい人のニーズに応えられる設計になっていることは確かです。

認可共済の商品ラインナップ例
 共済の商品ラインアップや特徴は、共済ごとで様々です。以下では、全労済の例を紹介します。

 全労済の主力商品といえば、年齢に関わりなく掛金が一律(終身医療タイプを除く)の「こくみん共済」です。世代別のニーズにそった、入院・通院・介護支援などの生存保障から、死亡・重度障害までのトータルな保障が、手頃な掛金で得られる設計になっています。

 働き盛りの世帯向けには「総合タイプ」「総合2倍タイプ」「大型タイプ」の3種類のタイプのほか、「医療タイプ」「終身医療タイプ」などがニーズに合わせて選べます。また、子供向けの「キッズタイプ」や年配者向けの「シニア総合タイプ」「シニア傷害タイプ」があります。

 たとえば、「総合タイプ」は月々の掛金が1,800円で、満15~59歳までの健康な人が加入できます。保障内容は、死亡時の保障(交通事故1,200万円、不慮の事故800万円、病気400万円)、入院時の保障(交通事故・日額5,000円、不慮の事故・日額3,000円、病気・日額1,500円)、身体障害保障(交通事故24~540万円、不慮の事故16~360万円)、常時介護400万円の保障が、ワンセットになっています。

 ちなみに、2009年1月から、生涯にわたる医療保障プランの充実と、セカンドライフに向けての保障ニーズに応える4タイプが、「こくみん共済」の新たなラインナップとして登場の予定です。

 なお、全労済では「こくみん共済」のほかに、より充実した保障や、より厳選した保障を検討する人向けに、以下の共済も用意しています。

 ・新総合医療共済…けがや病気に備えた医療保障としては、掛金アップがなく生涯にわたり保障が続く「終身医療プラン」と、5年・10年ごとに見直しができる「定期医療プラン」の2タイプ。さらに、終身医療プランには、ベーシック、総合、三大疾病プラス、女性疾病プラスの4タイプがあり、定期医療プランには、総合、三大疾病プラス、女性疾病プラスの3タイプがあります。長い人生を支える介護保障には、「終身介護プラン」と、医療保障付きで契約期間が5年・10年の「定期介護プラン」の2プランがあります。

 ・新せいめい共済…「終身生命プラン」と「定期生命プラン」の2タイプ。「終身生命プラン」は病気などによる死亡保障で最高2,000万円、「定期生命プラン」では、病気による死亡保障も最高3,000万円までカバーできます。

 ・ねんきん共済…老後の年金保障に遺族保障がついた生涯保障。加入後の生活変化に合わせて契約内容を変更できます。

 また、損保分野の保障としては、自然災害保障付火災共済、マイカー共済、自賠責共済、交通災害共済などの取り扱いがあります

 全労済では、総会などを通じ組合員のニーズを汲み上げ、新商品の開発や制度の改定などを行っているとのことでした。

 次回は、共済利用時に必要な組合員になるための要件と、活用事例、留意点などについて言及します。

 保障設計の個別相談においては「共済で設計して欲しい」というオーダーをされる人が少なからずいます。そうした人にあるのは、共済に対する絶大な信頼感とでも呼ぶべき感覚です。うまく表現できないのですが…、保険会社に対するそれよりも距離を短く感じているというようなイメージです。 毎年かかさず剰余金の案内をしたり、組合員のニーズに合わせて商品改定していくといったこまめな姿勢がそうした絆を育むのかもしれないと、個人的には考えます。

— posted by サイト管理者 at 03:45 pm  

東日本では晴れて厳しい暑さとなった

記録的に梅雨明けが早く、7月上旬から最高気温が35℃を超える猛暑となり、北日本から関東地方、北陸地方にかけての多くの地点で夏(6~8月)の平均気温が観測史上最も高く、1990年代以前では有数の猛暑年となった。山形県酒田市では8月3日に40.1℃の日最高気温を記録した。1978年は太平洋高気圧の勢力が非常に強く、快晴状態が続き猛暑に加え梅雨明け後の降水量が少なく水不足が深刻化した。
1984年
1983年11月から1984年5月にかけては、20世紀後半では有数の低温で、1980年から1983年にかけては冷夏傾向が続き冷害が頻発したため夏の気温が懸念されていたが、6月以降は一転して高温傾向に転じ、夏の平均は平年を1度ほど上回る猛暑となった。猛暑に加え、春以降降水量が少ない状態が続いたため、西日本を中心に水不足が発生した。この年は6月頃から規模の大きいラニーニャ現象が発生し翌年秋まで継続した。
1985年
6月はオホーツク海高気圧が発達して梅雨寒が続いたが、7月には解消して気温の高い日が多くなり、8月は多くの台風が接近したためフェーン現象が頻発し北日本や北陸地方~山陰地方などで記録的猛暑となった地点が続出した。この年は猛暑が起きやすいといわれるラニーニャ現象が前年から継続していた。

[編集] 1990年代
1990年
空梅雨で降水量は少なく、梅雨明け後は各地で最高気温が35℃を越す記録的な猛暑となり、各地で水不足となった。秋以降も太平洋高気圧の勢力が例年以上に強かったため、9月以降も高温傾向で顕著な暖秋となった。また、台風の上陸が多く、11月30日には台風28号が和歌山県白浜町に上陸し、観測史上最も遅い日本への上陸記録となった。
1994年
全国的に早い梅雨明け後、全国的に平年を1~2℃上回る観測史上最高の猛暑となった。全国各地で最高気温が35℃を超える暑さとなり、40℃を越えた地域も3ヶ所(アメダス)あった。大阪市[1]と広島市では、沖縄県石垣市以外の国内では観測史上初めて月平均気温が30℃を突破し(特に7月中旬~8月上旬の1ヶ月間では、大阪市の30.8℃を筆頭に東海地方以西の19ヶ所で平均気温が30℃以上となる。)、名古屋市と大阪市では最高気温の月平均が35℃を超えた。京都市では最高気温が4日間連続して39℃を超え、最高気温の旬平均が37.9℃(任意の5日間では39.2℃)に達した。大分県日田市では22日間連続を含む45日間の猛暑日となった。東京都心でも8月3日に東北地方に上陸した台風11号に南風が吹き込んだため最高気温は39.1℃を観測した。米は豊作であったが、空梅雨で降水量が少なかったことが災いし、全国的な水不足に見舞われた。なお、この年は9月以降も残暑が厳しく、10月以降も季節の進行がかなり遅く顕著な暖秋だった。この猛暑や残暑の要因はインド洋の西側の海水温の上昇によってエルニーニョ・ラニーニャ同様に世界的異常気象を引き起こすダイポールモード現象が指摘されている。
1995年
梅雨入りの6月は平均気温が平年を下回っていたが、7月下旬以降は太平洋高気圧に覆われ晴れた日が続き、北日本を除いて前年に引き続き猛暑となった。大阪市・名古屋市・岐阜市で月平均気温が30℃を超え、名古屋市と岐阜市では最高気温の月平均も36℃を超えた。この年は猛暑の原因となるラニーニャ現象が発生していた。
1999年
北日本、東日本では晴れて厳しい暑さとなった。太平洋高気圧が例年より北へ張り出しやすかったため、北海道でも多くの地域で連日最高気温が30℃以上の真夏日となった。北日本では平均気温が平年を1.6℃上回る著しい高温となり、札幌市、青森市、秋田市などでは夏(6~8月)の平均気温が観測史上最も高かった。一方、太平洋高気圧の西への張り出しは弱く、さらに前線、熱帯低気圧、暖湿気流などの影響を受けやすかった西日本と南西諸島では曇りや雨の日が多く、気温も平年程度にとどまった。9月以降も全国的に残暑が極めて厳しく、10月の本州でも連日真夏日になるなど、かなり暖かい日が続き、顕著な暖秋となった。この年の猛暑、残暑はラニーニャ現象による影響とみられる。

[編集] 2000年代
2000年
南西諸島を除き全国的に晴れて猛暑が続いた。特に北日本では前年に引き続いて顕著な高温となった。但し、大気の状態が不安定な日が多く、全国的ににわか雨や雷雨が起こりやすかった。東日本、西日本では梅雨明けが早く、7月以降は降水量が少ない状態が続いたため水不足となる地域があった。なお、前年ほどではないものの残暑が厳しく、暖秋だった。
2001年
6月下旬から既に暑く、7月は太平洋高気圧が本格的に強まって東北南部~南西諸島の広範囲で猛暑となり、特に東日本で著しい高温となった。東京都心、埼玉県熊谷市をはじめ関東甲信地方の多くの地点では7月の月平均気温が観測史上最高となった。7月24日には群馬県前橋市で40.0℃、静岡県佐久間町では40.2℃と観測記録を更新した。また、関東甲信地方の梅雨明けは7月1日と、1951年以降で最も早い梅雨明けとなった。但し、北日本太平洋側や関東地方では、8月以降発達したオホーツク海高気圧の影響で冷たい北東風が吹き込みやすかったため、8月は一転して気温が低く、曇りや雨の日が多かった。また8月中旬に台風11号が上陸したあとは全国的に一気に涼しくなったため、盛夏期は比較的短く秋の訪れも早い方であった。なお、北日本では7月に東北南部で猛暑となった以外は天候不順気味で、東北北部の梅雨明けは特定できなかった。

確認できております。

— posted by サイト管理者 at 11:38 am  

新たなライバルとして

近年はメンバーの若返りを見据えた方針から、磐田の黄金期を築き上げた選手達(ベテラン)の流出が目立っている。例として藤田俊哉(現 名古屋グランパス)、服部年宏、福西崇史(共に現 東京ヴェルディ)、高原直泰(現 浦和レッズ)等が挙げられる。


[編集] 沿革

[編集] 1990年代
1992年末にJリーグ準会員に加盟。

1993年にJFL1部で準優勝し、1994年からJリーグ昇格。 元日本代表監督ハンス・オフトを迎え、オランダ代表ファネンブルグ、元イタリア代表スキラッチ、ブラジル代表ドゥンガなど大物外国人選手の補強が相次いだが、次第に日本人選手の育成にシフト。 レギュラー選手を固定化することで高度なチーム連携を実現。

1997年の2ndステージで初優勝。 チャンピオンシップでは、この年のリーグ戦、ナビスコカップを通じて4連敗中だった(しかも直前のナビスコカップ決勝第2戦では1-5の完敗)鹿島アントラーズを中山雅史の活躍により破り初の年間王者に輝いた。

1998年は爆発的な攻撃力により1stステージ優勝、2ndステージ2位、ナビスコ杯優勝の成績を残すも、Jリーグチャンピオンシップで鹿島に昨年の借りを返され連覇はならなかった。 この年のリーグ戦で記録した年間107得点(1試合平均3.15点)、得失点差プラス68は現在も破られていない。

1999年は1stステージの優勝によりチャンピオンシップに出場し、清水エスパルスを破り2度目の王者に輝いたものの、2ndステージは12位に終わっており、中山らは「年間を通して安定した戦いをしたのは清水だ」と語っている。 この年はアジアクラブ選手権にも出場(優勝)しているため過密日程だった上、当時チームの要であった名波浩の1stステージ後のセリエA(イタリア)移籍の影響もあった。


[編集] 2000年代
2000年はステージ優勝はなかったものの、ゼロックススーパーカップで初優勝。 年間順位は4位だったが純粋な勝ち点による順位は柏レイソルに次ぐ2位だった。

2001年は開幕8連勝の勢いで1stステージ優勝。 2ndステージも好調で初の完全優勝を期待されたが鹿島に次いで2位に終わる。 チャンピオンシップではその鹿島と激闘を繰り広げたが延長の末敗れる。 ナビスコ杯も準優勝だったため、圧倒的な年間成績(26勝3敗1分)にもかかわらず無冠のシーズンだった。

2002年は前年の悔しさを晴らすべく勝ち続け、遂にJリーグ史上初のリーグ戦前後期優勝を成し遂げた。 この年の年間成績は昨年と全く同じだった(26勝3敗1分)。 ベストイレブンには94年のヴェルディ川崎に並ぶ同一チームからは史上最多タイの7人が磐田から選ばれた。 なお、当時アジア最高の中盤と呼ばれた、いわゆる「N-BOX」(N-BOXとは名波浩のイニシャルNから取った戦術の事である)による華麗なボール回しによって、Jリーグでの圧倒的なまでの強さを誇っていた事や(01年、02年は年間総合順位で2位に勝点15以上の差をつけた)、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)の前身であるアジアクラブ選手権で3年連続決勝進出(ACLを含めてこの記録は破られていない)を果たすなどの実績から、この時期のジュビロ磐田をJリーグ史上最強のチームであるという意見は未だ根強い。

2003年は鹿島に代わる新たなライバルとして岡田武史率いる横浜F・マリノスと覇権を争った。 開幕戦でいきなり両者が激突し横浜が4-2で快勝した。 結果的にこの試合がシーズン最終戦まで響くことになる。 1stステージは横浜に勝ち点1及ばず2位。 2ndステージは14節の時点で首位に立ち、横浜との最終戦を迎える。 磐田は引き分けでも優勝が決まり、しかも横浜が10人で有利な状況だったが、1-1の後半ロスタイムに久保竜彦に劇的な決勝点を決められ敗れる。 この結果横浜、磐田、市原が勝ち点で並んだが得失点差で横浜が2ndステージ優勝。 同時に昨年の磐田に続くリーグ戦前後期優勝を達成した。 磐田は年間成績で勝ち点1差の2位。ゼロックススーパーカップと天皇杯を制しタイトルは獲得した。

2004年の1stステージでは昨年に続き横浜と優勝争いを演じたが勝ち点2差の2位に終わり、横浜が3ステージ連続優勝の快挙を成し遂げた。 この1stステージの2位以降、磐田はリーグ戦では優勝争いから完全に遠ざかることになる。 名波浩や、藤田俊哉(現:名古屋グランパス)など、優勝に貢献した中盤の選手の平均年齢が上がったこと、育成を重視し補強に積極的ではなかったことなどから、2004年の2ndステージでは13位と低迷。

作業中です

— posted by サイト管理者 at 03:01 pm  

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